波乱万丈の「幕末おろしや留学生」始末記 岩佐毅

                        

~興味津々の書籍「幕末おろしや留学生」宮永孝著を読み終え、深い感動のあまり、しばし瞑目した。私が初めて旧ソ連時代のモスクワを訪問したのは今から40数年前の35歳の時である。雄大なシベリア上空を延々12時間飛行し、巨大なシェレメチェヴォ空港に降り立ち、初めてのロシアに胸が熱くなったものである。そして、様々な歴史に彩られ、城壁に真紅の赤旗がへんぽんと翻る壮大な「赤の広場」に立った時は、感動のあまりポロポロと涙をこぼしたものである。
この物語の主人公たちの幕府派遣留学生たちも、今から約150年前の幕末、髷姿、羽織袴でペテルスブルグに到着した日の興奮は計り知れないものがある。~
さて、長きに渡って日本を支配した徳川幕府の終焉が迫った嘉永7年(1854年2月)、再来日したマシュー・ペリー提督率いる戦艦9隻を連ねたアメリカ太平洋艦隊の強硬な圧力に屈し、遂に日本は鎖国を解き、開国に踏み切った。
そして、翌年には幕府勘定方川路聖謨左衛門丞〈かわじ・としあきら・さえもんのじょう〉と武装帆船デイアナ号に座乗するプチャーチン中将との間で、安政の大地震で壊滅した下田に於いて、安政2年(1855年2月)日魯和親条約を締結し、国交を樹立した。
その後、米、英、蘭の各国に続き、ロシアは明治維新の10年前の安政5年(1858年)箱舘に領事館を設置し活動を開始した。
そして、かつて下田入港時ディアナ号に乗船していたオシップ・アントーノビッチ・ゴシケビッチ(ベラルーシア人)が初代ロシア帝国領事となって箱館に赴任した。
それまで、頑に鎖国政策を守っていた幕府も、ようやく世界の趨勢を知り、急遽英国、オランダ、フランスに順次幕府派遣留学生を送り出し、欧米諸国の文化や科学技術を学ばせ、富国強兵を目指した。更に初代ロシア領事ゴシケビッチが、幕府にロシアへの留学生派遣を盛んに勧め、箱館奉行支配調役並・山内作左衛門(30歳)を筆頭に、合計6人の“おろしや”留学候補生を選出し、雄躍ロシアに旅立つこととなった。                                                                                                                                 

~留学生は幕臣の息子6人~
ロシア派遣留学生となったのは、主として開成所(後の東京大学)で学ぶ幕臣の子息であったが、一様に年齢は若く、小沢清次郎に至っては、紅顔の13歳の少年であった。
そして、彼らの中には福沢諭吉などが学んでいた大坂北浜の蘭学の適塾(緒方洪庵)の三男の城次郎も含まれていた。
さて、いよいよ慶応元年7月26日(1865年)ロシア派遣留学生一行6人を乗せた、ロシアの戦艦ボカテール号は箱館港から碇を上げて、一路日本海を西に向けて帆走を始めた。
その後、長崎、シンガポール、インドネシヤ、インドを経由し、アフリカの南端のケープタウンに寄港し、一行は初めて目にする異国情緒に興奮した。
その後、フランスのシエルブールに到着し、鉄道を乗り継いで、プロシア(ドイツ)、ポーランドなどを経由して3日半の後、ようやく露都ぺテルスベルグに到着した。
ツァールスコエ・セローの駅頭では、ゴシケビッチが息子のワジムとともに大きく手を広げて出迎えてくれ、固く抱擁して再会を喜びあった。彼らは箱館を出てから実に7カ月の長旅を経て、憧れのロシアに到着したのであった。
若きサムライたちは縦横に流れる運河や煉瓦作りの美しいロシアの街並みに見とれ、54万人の大都会の喧騒に驚いた。市中いたるところを馬車が駆け抜けており、6人の「サムライ」は早速銅銭5枚をはたいて髷を切り、洋髪に櫛を入れてもらったという。

≪当時のペテルブルグの街並み≫

~ペテルスブルグに日本語学校開設の漂流民たち~

実はペテルスブルグには18世紀初頭に既に大坂谷町7丁目の商人「伝兵衛」が江戸に向かう帆船で北上中に、太平洋上で遭難し、カムチャッカに辿り着き、その後、ペテルスブルグに連れてこられ、時の皇帝ピョートル一世と謁見している。伝兵衛は皇帝の願いを聞き入れ、科学アカデミーに併設された日本語学校の教師として、ロシアで初めての日本語教育を開始した。そして、彼はやがて生駒の山並みの美しい大坂帰還の夢破れ、ギリシャ正教に帰依して、名をガブリエルと改め、青い目のロシア人女性を娶り、ロシアの土となった。
その後も、カムチャッカに漂着したサニマ(津軽か南部出身)が連れてこられ、ガブリエルこと伝兵衛の助手を務めている。
更に、1729年(享保14年)薩摩の帆船が遭難して、やはり、ゴンザとソーザと言う少年二人がペテルスブルグに連れてこられている。ゴンザは極めて聡明な少年で、デミヤン・ポモルツェフと改称して日本人漂流民の子孫である、図書館司書のボグダーノフと協力し合って、和露辞典、会話集など6冊の学習書を製作したのち、21歳で夭折している。
それらの著作は科学アカデミーに現物が保管されているが、日本語とは言っても、薩摩弁であり、興味深い。
実は私は当時レニングラードと呼ばれていた旧ペテルスブルグを10回ほど訪問し、民俗学博物館クンストカーメラの倉庫に眠る、張りぼてのゴンザとソウザの首を前にして、館員たちと日露友好の乾杯を繰り返したことがある。また、中央海軍博物館所蔵のプチャーチン提督の部下のモジャイスキー中尉が描いた、当時の大坂や箱館、下田の風景画、そして、大黒屋光太夫の所持していたお盆や数珠などを目にしたことがある。
そして、更にエルミタージュ美術館の倉庫では川路左衛門丞聖謨がプチャーチンに贈呈した黒鞘の佩刀も目撃しており、日露の歴史交流に深い因縁を持つペテルスブルグをとても身近に感じている。ちなみに川路は会談の合間に、度々「妻が江戸一の美人」と自慢し、プチャーチンは彼に美しい日傘を贈呈している。
ところで、天明2年(1782年)にはカムチャッカ半島近くのアムチトカ島に漂着した伊勢の漂流民大黒屋光太夫もペテルスブルグを訪問し、エカテリーナ女帝の手に接吻して帰国の許可を懇願し、「お主の願いをかなえて進ぜよう」と許され、1792年(寛政4年)に根室に帰着し、克明な西洋事情を伝え「北瑳聞略」にまとめられている。ところで、留学生たちがペテルスブルグに到着したのは、大黒屋光太夫の訪問後、約70年の時を経ているが、彼らが洋服に着替えて外務省アジア局に到着の報告を行った時、ワシメルオトヒール・ヤマートフと名乗る、陸軍中尉待遇の十二等官の人物と出会った。
彼は、かつてロシア人約500人が半年伊豆半島の戸田村に居住して、遭難沈没したデイアナ号に代わって帰国するための帆船ヘダ号を建造中に、ゴシケヴィッチと密かに親交を温めていた。そして、1854年に戸田からデイアナ号のロシア人乗員を乗せて出港した、傭船グレタ号で、酒樽に隠れて密かにロシアに亡命した、橘耕斎なる謎の人物であった。

 ≪ロシア亡命の橘耕斎≫

この不思議な人物は、その後、明治の日本に帰国して、浜松町の増上寺近辺に居住し、ロシア通として生涯を終え、小さな墓石が草木の間にひっそりと立っている。                                                                                                                    

ところで、6名の留学生たちは次第に落ち着き、懸命にロシア語を学び始め、精密術、鉱山学、医学、機械学、海軍学、歴史、地理などの専攻科目も決めて、翌年の大学入学を心待ちにしていた。

~夢破れ、5人の留学生は幕府崩壊の日本に帰国~
ペテルスブルグに滞在する6人のサムライ留学生たちは、元箱館領事ゴシケヴィッチや作家ゴンチャロフの指導を受けて、ロシア語を懸命に学んだ。時折ペテルスブルグの市街も散策し、荘厳なロシア正教寺院や賑やかなネフスキー通りなどを目にして、その壮麗さに驚いたが、物価の高さには難渋した。
しかし、様々な理由でいつまでたっても大学に進学し、科学技術や専門の学問を学ぶという、期待や夢はかなえられることはなく、無意味な時が経つばかりであった。
その間、密出国してロンドンに留学していた薩摩藩士森有礼(後の文部大臣)や、樺太境界確定交渉のため来訪した箱館奉行小出大和守一行などとも歓談した。
そして、結局留学生たちは、ヨーロッパに比較して文化や経済も遅れをとっているロシアの実情を知るにつれ、次第に嫌気がさしてきており、慶応3年(1867年)4月に最年長の山内作左衛門が失意のうちに小出大和守一行とともに帰国してしまった。
その翌年慶応3年(1877年)10月将軍慶喜は大政奉還を奏上して、遂に徳川幕府は崩壊し、世情は騒然となり、慶応4年(1978年)4月幕府はついに英仏蘭露の留学生の総引き揚げの決定を下した。
結局大きな夢を抱いて勇躍遠路はるばるロシアに来訪した6名は、見るべき成果を得ることもなく、留学生活を途中で打ち切ることを余儀なくされた。しかし、理由は定かではないが、市川文吉だけは、唯一人幕命に従わず、ペテルスブルグに残り、留学生活を継続した。ところで、順次帰国した5人の留学生たちは、明治維新を迎えて官僚や実業家となったり、大学教授などに就任して新たな人生を歩んだ。
まず、中途で帰国した山内作左衛門は順天堂大学創設者で蘭学者の松本良順の縁戚関係という点を活かし、山内資生堂(現在の資生堂とは別会社)という薬種問屋などを開業してビジネスの道を歩んで成功を遂げた。また,大築彦五郎は帰朝後、開成学校(後の東大)教師をしたり、公務員となって樺太や北
海道に勤務したが、35歳の若さで病没している。
大坂北浜にあった名高い蘭学塾適塾(大阪大学医学部の前身)の主宰者緒方洪庵(岡山県出身)の四男城次郎は、開設された緒方記念病院事務局長に就任し、和露辞典魯語撰を残している。
しかし、小沢清次郎、田中二郎の二人に関しては、東京大学教授試補に任じられたという以外、その後何らの事蹟も記録が残されていない。                           

≪緒方洪庵三男、城次郎≫

(ちなみに、適塾の家屋は数十回の大阪空襲でも消失を免れ、現在市内中心の北浜に保存され、記念館として公開されている。是非、見学をお勧めする。)
「長男アレクサンドルと涙の再会を果たした市川文吉」
   ~40歳代で隠遁生活、清水次郎長とも交流~
ところで、5名の仲間が帰国の後ペテルスブルグに残留した市川文吉に関しては次のような興味深い後日談が残されている。
5人の仲間が帰国した後、文吉は日露開国交渉の立役者のプチャーチン提督(後文部大臣就任)の自宅に寄留して勉学に励み、作家ゴンチャロフなどとも交流して、ロシア語、歴史、数学などを学んだ。そののち、シュヴィーロフと言うロシア人女性と結婚して、長男アレクサンドルが誕生している。
しかし、文吉は明治6年(1873年)約8年にも及ぶロシア滞在を切り上げて単身帰国した。そして、帰国後東京外国語学校(後の東京外国語大学)ロシア語科教師に就任した。その後、外務省に転じて、二等書記官に任じられ、明治7年(1874年)在ペテルスブルグ全権公使榎本武揚の随員として、再度ペテルスブルグに赴いた。そして、在勤5年の後帰国し、外務省勤務と東京外国語学校教師を兼務している。
文吉は中国語、ロシア語、フランス語、英語が堪能で、意外にも侠客清水次郎長とも
付き合いがあったと伝えられている。また、プチャーチンの娘オリガ(皇后付文官)が来日した際には、自宅敷地内に彼女の住居を建設し、親しく交流している。
ロシアに残した息子のアレクサンドルにも死の直前まで律儀に送金を続けたが、ペテルスブルグに残された長男アレクサンドルは、遠路来日して懐かしい文吉を2度訪ねて涙の再会をしており、二人で撮影した写真から、数奇な運命の二人の表情を垣間見ることができる。

≪右・市川文吉、左・息子アレクサンドル≫

(あとがき)

明治維新直後、新政府は欧米諸国の文化や科学技術を習得するため、多数の留学生を送りだしたが、明治4年、幼少の少女たち5人をアメリカに派遣した。彼女たちはすべて明治維新で賊軍となった幕臣の子女で、会津若松の鶴ケ城に籠城した家老一家の山川捨松(12歳)もその一人であり、長兄は後に陸軍少将、次兄は東大総長となった一族の末娘であった。
捨松は女子大を優秀な成績で卒業し、10年の後帰国し、討幕軍の会津城攻め時、砲兵隊長として捨松が籠城する城内に砲弾を浴びせた薩摩の西郷隆盛の従弟・大山巌元帥の妻となった。そして、二人は華やかな鹿鳴館の舞踏会で軽やかにダンスのステップを踏んでおり、運命の巡り合わせとは興味深いものである。(大山巌にはフランス留学経験があり、陸軍大臣となった。)
また、わずか6歳で渡米し、後に津田塾大を創設した津田梅子、元箱館奉行の長男で三井物産創業者益田孝の妹永井繁子もそのうちの一人である。
是非~日本初の女子留学生~「鹿鳴館の貴婦人大山捨松」中央公論社刊も合わせ読まれることをお勧めする。(了)

 ≪陸軍卿大山巌の妻となった捨松≫

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です